こんにちはᐕ)ฅ

偉人の話を読むたび、自分も大志を抱こうとして、まず机の片づけでつまずくわっちゃです😂

竹鶴政孝は、ニッカウヰスキーの創業者であり、日本のウィスキー史を語る中心人物です。
スコットランドで製法を学び、その知識を日本へ持ち帰ったことで知られます。

ただ「情熱の人」で終えると、歴史がきれいすぎる。
技術を学ぶことと、異なる土地で産業として根づかせることの間には、資金、設備、原料、樽、人材、販路、熟成を待つ時間があります。

この記事では、英雄の年表ではなく、学んだものを文化へ変えた仕事としてたどります。

年次と企業史は、ニッカウヰスキーの歴史サントリーのウイスキー100年史を照らし合わせて確認します。

スーツ姿で眼鏡をかけた竹鶴政孝の白黒肖像写真
竹鶴政孝。撮影者不詳/Wikimedia Commons/Public Domain(PD-Japan-oldphoto)

竹鶴政孝の歩み|5つの転換点

  1. 広島・竹原の酒造家に生まれ、醸造を学ぶ
  2. 摂津酒造からスコットランドへ渡り、製法を学ぶ
  3. 帰国後、寿屋で山崎蒸溜所の創業期へ関わる
  4. 独立し、北海道・余市に自らの拠点を築く
  5. 異なる原酒とブレンドの体制を育て、日本の産業へ残す

酒造りの家から、未知の洋酒へ

竹鶴政孝は1894年、広島県竹原の酒造家に生まれました。
醸造を学び、摂津酒造へ入社。日本で本格的なウィスキーを造るため、1918年にスコットランドへ渡ります。

ここで大切なのは、見学旅行ではなかったことです。
大学で学び、蒸溜所で実習し、製法を記録した資料は後に「竹鶴ノート」として知られるようになります。

知識を輸入するのではなく、自分の手で工程へ触れ、持ち帰れる形へ言語化した。
学びを仕事へ変える泥臭さが、すでにここにあります。

リタと帰国|個人の夢は、一人では運べない

スコットランドで竹鶴はジェシー・ロベルタ・カウン、通称リタと出会い、結婚します。
2人は1920年に日本へ戻りました。

リタを「偉人を支えた妻」の一言だけで置くのも雑です。
異国へ渡り、言葉と暮らしへ入り、家族と事業の時間を共にした一人の人生があります。

文化の創業史は、表に出る人物だけで作られません。
家族、職人、従業員、地域、取引先。誰かの夢が社会へ根づくには、多くの生活が関わります。

朝ドラ『マッサン』と、あとからつながった

正直に言うと、ぼくはNHK連続テレビ小説『マッサン』が大好きでした。
それなのに、今回あらためて竹鶴さんの歩みをたどるまで、竹鶴さんとリタさんが物語のモデルだったと知りませんでした。

(いつも気づくのが遅い😇)

ニッカウヰスキーの公式史によれば、『マッサン』は竹鶴政孝・リタ夫妻をモデルに、2014年9月から2015年3月まで放送されたドラマです。作中では、政孝を思わせる主人公が「亀山政春」、リタを思わせる妻が「エリー」として描かれています。

ただし、ドラマは竹鶴夫妻の人生を一字一句再現した伝記ではありません。
実在の2人をモデルにしながら、人物名や出来事を物語として再構成した作品です。ドラマで心を動かされたあと、公式資料や本人の記録へ進むと、フィクションと史実の両方がもっと立体的に見えてきます。

昔好きだった物語が、何年もあとになって一杯の背景とつながる。文化を知る面白さは、こういう再会にもあります。

山崎の創業期|技術だけでは、事業にならない

帰国後、竹鶴は寿屋の鳥井信治郎とともに、日本初のモルトウィスキー蒸溜所とされる山崎蒸溜所の創業期へ関わりました。
山崎では1923年に建設へ着手し、1924年に竣工。1929年には国産本格ウィスキー第1号「白札」が発売されます。

ここで、竹鶴一人が日本のウィスキーを造った、と単純化しないことが大切です。
技術を学んだ竹鶴、事業を決断し市場を作ろうとした鳥井、現場の人々、熟成を待つ資本。それぞれの仕事が重なっています。

「良いものを造れば自然に売れる」とは限らない。
初期製品は市場とのずれに苦しみました。文化を根づかせるには、品質と同時に飲み手の時間も育てなければなりません。

木樽と銅製ポットスチルが並ぶ蒸溜所内部
学んだ技術は、設備を置くだけでは文化にならない。土地と人へ根づかせる仕事が必要だった。

余市へ|理想の土地を、自分の事業にする

竹鶴は寿屋を離れ、1934年にニッカウヰスキーの前身である大日本果汁株式会社を設立しました。
北海道・余市に蒸溜所を築きます。

余市は、冷涼な気候、空気、水など、竹鶴が求めた条件を持つ土地でした。
しかしウィスキーは造ってすぐ売れません。熟成を待つあいだ、会社は地元のりんごを使ったジュースなども製造しました。

理想だけで時間は買えない。
本命を育てるため、足元の産物で事業をつなぐ。この現実感が、ぼくはたまらなく好きです😎

夢を守るとは、一直線に走ることではなく、熟成を待てる仕組みを泥臭く作ることです。

技術を残すとは、次の人が続けられること

余市での蒸留、樽造り、のちのカフェ式連続式蒸溜機の導入、1969年の宮城峡蒸溜所。
竹鶴の仕事は、一つの製品を完成させることだけではありませんでした。

異なる個性の原酒を造り、組み合わせ、次の世代が続けられる体制を残す。
個人の再現ではなく、組織と土地へ技術を渡していく。

この視点で見ると、ウィスキーは孤高の職人芸だけではなく、何十年も続くチームの仕事です。

ニッカウヰスキー北海道工場内に立つ竹鶴政孝の胸像
ニッカウヰスキー北海道工場内の竹鶴政孝胸像。撮影:Morigen/Wikimedia Commons/Public Domain

物語を飲むとき、事実も一緒に確かめる

創業者の物語は魅力的で、広告やドラマにもなります。
だからこそ、企業の公式史料、本人の著作、文化財資料、複数の立場を照らし合わせたい。

美談を壊すためではありません。
鳥井信治郎、リタ、現場の人々、土地の役割を消さず、物語をもっと立体的に受け取るためです。

歴史の次に現場を見たくなったら、蒸溜所見学で何を見るかを旅の入口にできます。

補足

本記事は公開資料と書籍メモをもとにした歴史解説であり、著者自身の現地取材記事ではありません。余市訪問後は、現地写真・展示・一次記録を追加して更新します。

まとめ|学んだ人ではなく、根づかせた人

竹鶴政孝は、スコットランドでウィスキー造りを学び、日本で山崎の創業期へ関わり、余市に自らの事業を築きました。
その価値は、海外技術を持ち帰ったことだけではありません。

日本の土地へ置き直し、熟成を待つ会社を作り、職人と設備を育て、次の世代が続けられる形へした。
一人の夢が文化になるまでには、理想と同じくらい地味な継続が必要でした。

次に一杯を飲むとき、銘柄名だけでなく人物と土地を一つたどってみてください。
味の向こうに誰かの決断が見えたとき、ウィスキーは商品から文化へ変わります。

お酒は20歳になってから。飲酒運転はせず、妊娠中・授乳期の飲酒は避け、無理のない量で楽しんでください。
厚生労働省「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」(2026年8月14日参照)